異なることを歎ぐ 第六条 其の三十九
~ 異なることを歎ぐ~ 第六条 其の三十九
この条では、真面目に聞法を重ねて道を求めている者を、「私の弟子だ、ひとの弟子だ」というのは間違っているし、私から離れたら地獄に堕ちるぞと言い驚かせるのはもってのほかであると、親鸞聖人はたしなめられています。
道を求める者はすべて仏様から頂いた信心によって生かされているので、すべて仏のお弟子であると教えられています。
(『歎異抄』本文)
如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんと申すにや、かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々
(意訳)
真の道を歩みたいという心は、お釈迦様の教えや善き人(師)との出会いによって頂いた心なのに、我が物顔にする事は、あってはならない事です。
真の救い(支え)に出会えれば、仏様の恩や善き人との尊きご縁に頭が下がることでしょう。
心を賜るとはどういう事なのか
本文一行目に、信心(真を求める心)は自分で起こすのではなく、「賜った心である」とあります。
皆、一度きりの人生をどのように生きようかと考えます。
溢れんばかりの物やお金があればいいのか、健康な身体でなければ価値がないのか。
または賢い者になって地位名誉があればいいのか。それとも欲を満たすのではなく、修行を重ね自然と一体となって生きる事が出来たら心がみたされるのだろうかと、人間の歴史が始まって以来、その事へのチャレンジと思案を重ねてきました。
しかし歴史を通して教えられる事は、どの道を選んでも、これで良かったのだろうかという煩悶と、幸せを望みつつ、争ってしまうという歴史の繰り返しです。
当然、親鸞聖人も一度の人生を生きる為に道を求めて、力の限りを尽くして比叡山で頑張りました。
しかし頑張れば頑張るほど心が濁るばかりでした。
そのような時、師と仰ぐ事となる法然上人と出会いました。
そして決定的な言葉に出遇いました。
真を求める心(信心)は、自分の努力で起こすのではなく、すべて賜った心、頂いた心なのです
その言葉に驚きました。
自分の努力で頑張って修行し、極力欲を無くし、空の悟りを得るまで頑張れと聞くういてきた教えは何だったんだろうか。
それが出来ないなら、仏様に助けて欲しいとすがれば、必ず救われるという教えは何だったのか分からなくなりました。
そして外を向いていた眼が、依存していた心が、自分の内側に向きました。
「私自身に賜った心」とはどういうことだろうか。
それから雨が降ろうが、雪が降ろうが、100日間、本当の歩むべき道、出会うべき救いを頂く為に、法然上人の処に通われました。