異なることを歎ぐ 第二条 其の十六
~ 異なることを歎ぐ~ 第二条其六
前回は、「極楽に生まれ、地獄に堕ちない道を教えて下さい」と尋ねに来た方々に、「自分だけ救われよう、助かろうとする道こそ、地獄を生み出している生き方です」(地獄一定すみかぞかし)と、悲しむべ き私たちの現在地を言い当てられました。 そして真剣に命がけでお釈 迦様自身が救われた仏道に出遇うことを勧められます。
(『歎異抄』本文)
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。
法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。(超訳)
私を救った法然上人は善導大師に救われ、善導大師もまた弥陀の本願に救われた釈尊の教えを依り処としました。
この伝統以外に、私が救われていく道はありません。
救いの歴史は善き人から始まる
人は確かな道を求めます。
この道で良いのだろうか、本当はもっと良い道があるのではないだろうか。
救い(覚り)が山の頂上とするならば、どの道から登っていけば良いのだろうかと。
しかし親鸞聖人は、ゴール(頂上))に救い(覚り)があるのではなく、どの道を歩こうとも、自分が今歩いているその場で、これで良しと救われなければ、ずっと空しいまま過ごす事になると教えられます。
「私(親鸞)は、弥陀の本願を信じてから釈尊の教えを聞き、続いてその教えを丁寧に解釈された善導大師の教えに頷き、そして善導大師に救われた法然上人にやっと出遇えたという、階段を登るような、段階的な歩みで法然上人を師と仰いだのではありません。
法然上人の「愚者(私自身)になって往生する」という生き方に感動し、法然上人の生き方を通して、弥陀の本願を慶ばれている釈尊の教えに出遇う事が出来ました」と言われています。
「念仏したら地獄に堕ちないか、極楽に往けるか」という損得心(分別心)にこそ地獄を生み出す本があると強く戒める一方で、「弱い者は弱いまま、強いものはその事を驕ること無く、どのような私であっても、今、ここを生き合っている善き人に、まず出遇いなさい」と、救いの歴史は善き人との出遇いから始まる事の確かさを教えられています。