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異なることを歎ぐ 第五条 其の二十八

~ 異なることを歎ぐ~ 第五条 其の二十八

先月号では、親鸞聖人は亡き父母のために孝養(追善供養)のお参りをした事がないという言葉から始まりました。
そこには先立たれた方々を「仏さま」と仰ぎ、「私に道を教えて下さる方」として敬う親鸞聖人の生き方が告白されています。

(『歎異抄』本文)

いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

(意訳)

どのような人であろうとも、やがて仏の位に到ったときには、だれをも救済する事ができるのである。

いずれもいずれも仏になりて

亡くなられた方をどのような方として手を合わすのかが、第五条のテーマです。
私たちは「亡き人の生き方や、亡くなり方」で手の合わせ方が変わってしまいます。
生きている時に善行に励んだ人と、人に迷惑ばかり掛けていた人。
また平均寿命で亡くなった方と幼くして亡くなった方、事故や天災、自殺や他殺という縁の違いで、逝き先を喜んだり、心配したり、憂うことがあります。

しかし親鸞聖人は、「いずれもいずれも仏になって」と言われます。
どんな人生であっても、どんな最後であっても、必ず仏に成ると言われます。
生きる事と死ぬ事は、いのちあるものに平等に与えられた事実であり、その事実に優劣を付けてはいけないと教えられます。

このように言われたらどう思うでしょうか。
ほとんどの人は、あの人は良い人だったから極楽に逝って仏になって当然だろうが、重罪を犯した極悪人が、浄土に生まれて仏になるなんて承服できないと憤慨するでしょうか。
死刑制度があることそのものが死に方に優劣をつけて、「逝った先は違う事にしておかないと、真面目に生きている者の気持ちがおさまらない」という思いがあるからでしょう。

しかしこの条を頂いて思う事は、亡き人の逝き先よりも、大切な方を亡くして、どう手を合わせ、どう生きていけば良いのかと問う「私」の救いが問題であります。
また誰もが仏になるというけれども、何故悪人が仏になれるのか納得出来ていない「私」の今を問題にしてくれているということを押さえて、次の文を頂いていきたいと思います。

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