異なることを歎ぐ 其の5
~ 異なることを歎ぐ~ 其の5
「序」(前号まで)では、「後の世の方々が、親鸞聖人の大切な歩みや言葉を、間違って理解しない為」という、『歎異抄』を書かなければならなかった理由が述べられてありました。 本文では、歩みと言葉が、懇切丁 寧に書かれてありますのでゆっくりと味わっていきたいと思います。
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生おばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもうたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり
《私訳》
第一条・本文
私に先立って救いを求め、私の本当の苦悩を知ってくれる善き人との出遇いがあったので、どれだけ苦悩多き人生であっても、生きて往こうと思えました。
「たすかる」
上記の本文に、「たすかる」(たすけられまいらせて)とあります。
私達がこの言葉でイメージするのは、困っていた状況が解決した時ではないでしょうか。
お金や健康に関する問題、人間関係や思い通りにいかない事など、困った状況が改善された時ほど、「たすかった」と思います。
ですからその都度、お願いや努力をして解決の道を探ります。
しかし仏は
❶「諸行無常」(問題が無くなることはない)、
❷「諸法無我」(思い通りになることはない)、
❸「一切皆苦」(必ず苦しまねばならない)と、
私達の願いとは反対に、生きる事の事実を説きます。
この言葉だけ聞くと、夢も希望もなくなり、とても「たすかる」気がしません。
ではどのような事を「たすかる」と言おうとしているのでしょうか。
本文では「往生をとぐる」と続きます。
往生をとぐる
一般に「往生」と言えば、死んだ後や、困った状態の時に使いますが、本来は「生きて往く」(往生)道が定まった状態を意味します。
言い換えれば自分の現在地(課題)が見えて、覚悟が決まった状態を往生と理解しても良いでしょう。
司馬遼太郎氏は、「無人島に持って行くなら歎異抄」と言われていました。
無人島とは、先述した❶❷❸という、誰とも代わってもらえない私の事実と、必ずその事実と向き会わなければならない現場をいうのでしょう。
その非常に心細い状況を生きて往く為に、又たすかる為には、「弥陀の誓願」(善き人)が欠かせないと、親鸞聖人は言われています。