異なることを歎ぐ 第五条 其の三十
~ 異なることを歎ぐ~ 第五条 其の三十
誕生や命終、食前食後や大切な事に出遇った時、またやってはいけないことをしてしまったとき、仏教徒は手を合わせ、心の内側と向き合ってきました。
しかしその事を忘れたとき人は「六道」に堕ちてしまうのだと仏さまは教えます。
六道とはどのような世界なのでしょうか。
(『歎異抄』本文)
六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなりと云々
(意訳)
教えによって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの歩みをしていたのは私でした。
そのように頷けたとき、救われるべきは、亡き人ではなく、見送る側の私でした。
六道の身を教える
念仏の「念」は、心の上に蓋をするという意味の「今」と書きます。
仏に依って、外ばかり見る心を立ち止まらせ、自らの内側を見せ、改めて歩み直させるはたらきを念仏と言います。
私達の内側には、①地獄(何をやっても結局孤独になる心)、②餓鬼(何をしても満たされない心)、③畜生(依存心が強く、本当は何がしたいのか分からない空しい心)、④ 修羅(思い通りにならないと苛立ち攻撃する心)、⑤ 人(前の四つを反省し学ぶ心)、⑥ 天(私ほど真面目に物事を考えている者はいないだろうと人を見下す心)という六道があります。
そんな心は持っていないと思うかも知れませんが、満たされず貪りを表す「餓鬼」を向上心と捉えてみてはどうでしょうか。
しっくりくるでしょうか。
また「修羅」を正義感、「畜生」を癒やされている状態と受けとめても良いかもしれません。
詰まるところ人間は個人的な満足を得る「天」を求めて頑張っています。
しかし「天」を保つことは非常に難しく、老病死の現実や人間関係による問題が起こると、「天」から堕ちて、「餓鬼」や「畜生」をグルグル廻る事になります。
これを六道輪廻と言います。
しかし六道を輪廻していると思っている人は一人もいません。
むしろ周りや環境が私を苦しめていると思って「修羅」になります。
輪廻が止まらない私達の為に、自分の今を確かめる七つ目の道、「仏道」を説く為に釈尊は誕生されました。