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異なることを歎ぐ 第五条 其の二十九

~ 異なることを歎ぐ~ 第五条 其の二十九

生まれ方や亡くなり方で逝き先が決まると言われていた宗教観の中で、「それは違う」と叫んだのが親鸞聖人でした。
人間の中にある比べる心( 分別心)こそが迷いの本だから、救われるべきは亡き人ではなく、今生きている私なのだと教えられています。

(『歎異抄』本文)

わが力にてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなりと云々

(意訳)

もし念仏が私の力で行える善行であるならば、私が亡き父母を救いましょう。
しかし自分の全体を教えに照らされてみれば、大切な事を見失い、一喜一憂する私でありました。
念仏で救われるべきは、見送られる側ではなく、むしろ見送る私であることが分かりました。

念仏とは

浄土真宗では、誕生や命終の時には合掌し南無阿弥陀仏と称えます。
この行為は、日頃手を合わす暇もなく走り回る者に、立ち止まる時と「いのち」へ敬意を表す時を与えるという大変厳粛なものです。
物を頂いた時、食事の前後や大切な事を教えて頂いた時などもそうです。
いのちある者は、すべて頂き物の中で生かされ、歩むべき道も頂いているので、その事への御礼を合掌と南無阿弥陀仏という言葉で表してきました。
これが念仏する事の意味です。

しかし念仏するご縁に背き、立ち止まる時を見失ったとき人は、人生の目的を見失い、欲をつのることで道に迷い、何の為に頑張って来たのか分からず空しく過ぎる事になると説かれています。
本文では「六道四生の業苦にしずんでいる」とあります。
しかししずんでいると言われても実感がないのが正直なところだと思いますので、次号で確認したいと思います。

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