異なることを歎ぐ 第三条 其の二十一
~ 異なることを歎ぐ~ 第三条 其の二十一
単なる「悪人」ではなく、「他力をたのみたてまつる悪人」という表現には、私を支える大きな働きに背き続けてきたという「慙愧」(恥ずかしさ)と、やっと大きな支えに出遇えたという「讃嘆」(敬い)が込められている事を確認しました。
その具体性に聞いていきます。
(『歎異抄』本文)
他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。(超訳)
教えに依って自覚された悪人こそ往生できるのです。
だから善人だけでなく、他力に依る悪人が往生出来無いはずがないとおっしゃったのです。
往生の人
往生とは、生きて往くと書きますので、立ち止まらないで、歩みが始まったという救いを意味しています。
では、救われた人の二つの特徴を聞いていきます。
まずは「讃嘆」出来た事が救いです。教えに依って、自分自身の全体を照らされてみれば、私が願い、他から願われ私はこの世に生まれて来た事、そして私は一人ではなく、実はたくさんの慈悲(やさしさ)に守られながら歩んでいた事に出遇えた感動を讃嘆(敬い)と言います。
そして讃嘆出来た人は同時に「慙愧」する人とあります。
まず「慙」は①罪を作らない生き方をします。もし罪を犯したとしてもその事を②恥ずかしいと思い、③素直に謝る生き方を意味しています。
「愧」は、①他者にも罪を作らせない生き方を勧めますが、罪を犯させたとしても②他の人の責任にせず謝罪の気持ちに溢れ、③歩み直しが常にしっかりと世の中に伝わる事を意味しています。
一言で言えば、たくさんの慈悲に背きながら生きてきた自分を恥じる事を慙愧と言います。
ですから「他力をたのみたてまつる悪人」とは、「讃嘆と慙愧」という生き方が始まった人という意味になります。
このように書くと、とても困難な生き方に思われますが、「他力に依る悪人」なので、教えの言葉に励まされる時と場から絶対に離れず、聞き続けるだけで良いのです。
ただそれだけでいいのです。