異なることを歎ぐ 第四条 其の二十四
~ 異なることを歎ぐ~ 第四条 其の二十四
優しさには、「聖道」と「浄土」という二種類があって、悲しみに寄り添い続け、喜びに変わるまで育み続けたいという人間の思いを中心にした「聖道」という優しさを先月は確認しました。
理想ではあるけども、実現しがたい優しさでした。
(『歎異抄』本文)
慈悲に、聖道・浄土のかわりめあり。
浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になって、大慈大悲心をもっておもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。(超訳)
優しさにもかわりめがあります。
人間の思いを超えた優しさ(浄土)とは、人間の思いを中心にした優しさの限界を報せつつ、自らの足で立って歩む者に成るまで育んでくださる仏様の優しさを言います。
かわりめあり
親鸞聖人は、人間の思いを中心にした優しさ(聖道)と、人間の思いを超えた優しさ(浄土)の二つがあると言っているのではありません。
私達には聖道の優しさしか理解出来ないし、実践出来ません。
困っていたら具体的な手助けが欲しいし、困っている人がいたら助けたりします。
しかし具体的に手助けしてもらったからといって問題が無くなるわけでもないし、助けたけれども御礼の一つも無ければ腹が立ちます。
それらは目の前の問題が一旦無くなっただけで、また次の問題を引き起こしていきます。
優しさが問題を引き起こすとは人間の思いを中心にした優しさの難しいところです。
まるで取引の様な優しさです。
しかしそんなことを繰り返していると、自分も他者も疲れて、潰れてしまいます。
そして本当の優しさってなんだろうかと問わずにはおれなくなります。
浄土の慈悲( 優しさ)
上記の本文を確かめますと、「念仏して」とは教えを聞いてという事、「いそぎ仏になって」とは、教えに依って人間の愚かさや私の歩みの全体を報されたという事です。
どのように報されたのか。第二条では「いずれの行もおよびがたき身」と、第三条では「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることなし」と報されたとありました。
簡単に言えば、努力はしてきたけれど、本当に他者とつながれたんだろうか、本当に自分自身の人生を喜べているだろうかという問いに立てた時、初めて外に向いていた眼が、自分の内側を見だしたという事です。
この「自分の内側を見る」という事が大変大切な出来事なのです。