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異なることを歎ぐ 第四条 其の二十六

~ 異なることを歎ぐ~ 第四条 其の二十六

第四条は、慈悲(優しさ)を①「聖道」と②「浄土」の二つに分けて説かれています。
言い換えれば「人間心」(聖道)ではなく、「仏心」(浄土)に出会う事を勧めています。

(『歎異抄』本文)

今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々。

(意訳)

人間心で、どれほどいとおしく、また可哀想だと思ってみても、その思いで大切な人を助ける事はできません。
だからこそ、「あなたが救われるまで絶対に私は覚りに安住しない」と誓われた、仏の四十八願(本願)だけが、誰もが救われていく道なのです。

いとおし不便におもう

近しい方が困っている時や災害があった時など、「大変だな、変わってあげたいな、可哀想だな」という言葉をよく耳にするし発したりします。
「私には関係ない」と言われるよりは少し気持ちが楽になりますが、その思いだけで困った方が助かる事は難しいでしょう。
だから、悩みを聞いてあげたり、ボランティアとして現場に駆けつけたり、足りない物資を送ったりする方もおられます。
それで救えたとは思えませんが、助ける方も助けられる方も、少し気持ちが楽になる事はあるでしょう。
しかし皆が去った後、独りでその課題と向き合う時にこそ、依り処になる
ような道がなければ、本当に救いが成就する事はありません。

念仏もうすのみぞ、大慈悲心

では、「いとおし不便におもう」以外にどんな救いがあるというのでしょうか。
本文では「念仏申すのみ」とあります。
南無阿弥陀仏と称える事です。
阿弥陀仏とは、状況ではなく、自らの存在が喜べたら、救いが決まると教えて下さっています。
親鸞聖人は、救われた喜びを、「至心に回向したまえり」(私の心のずっとずっと奥から阿弥陀仏が、しっかりと生きろと促し続けて下さっています)と言われます。

私たちの心は、起こった状況に左右されますが、どんな状況に陥っても、心の奥の方から「どんな時でも私らしく生きたい」という叫び声があります。
その声こそが阿弥陀仏だと教えられます。
外から私たちを救うと思っていた阿弥陀仏が、自らの内にいたことへの驚きと、阿弥陀仏(念仏)こそがどのような状況でも私の生きる力となって支えていたのだと、親鸞聖人は喜ばれています。

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