異なることを歎ぐ 第二条 其の十五
~ 異なることを歎ぐ~ 第二条其五
前回は、「念仏は極楽に往くために必要な行ですか、それとも他に地獄に堕ちない方法がありますか」と尋ねに来た門弟達に対して、私は知りません(存知しない)と答えられました。 そして「たとえ念仏して 地獄に堕ちても、全く後悔しません」とまで言われました。その答えに 皆驚いた事でしょう。 今月はその理由を尋ねてみましょう。
(『歎異抄』本文)
そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏もうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。
いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(超訳)
その理由は、努力をして悟りを開ける身でありながら、念仏して地獄に堕ちたのなら、騙されたと思って後悔するでしょうが、どんなに努力をしても、私自身が地獄を作っている身である以上、仏に救われていく道しか私にはありません。
「地獄一定すみかぞかし」
地獄を理解する為に、大変大切な文です。
私たちは「極楽」も「地獄」もどこか別の場所にあって、そこに行く為に、また行かない為にどうすれば良いかと悩みます。
確かに経典には、極楽浄土は西の方とか、生きているときの悪行の報いで地獄に堕ちるという言い方をしているので、別の所と理解しても仕方ありません。
しかし貪りと争いと無気力を地獄の苦しみと譬えられている事を思えば、今私たちが生み出している世が地獄であると理解しなければなりません。
その様な地獄の世を他人事として、自分だけ極楽に往こうとする生き方こそ、地獄そのものだと親鸞聖人は言っておられます。
自分の生き方を棚に上げておいて、自分だけ往こうとする極楽など私は知りません( 存知しない)と怒っておられるのかもしれません。
お釈迦様が地獄が生み出す妬みと嫉妬の世界から離れずに教え(救い)を説き続けられた理由は、地獄を生み出しているのは他の誰でもない自分自身だと教える為です。
そして覚悟を決めて慙愧する時、本当の意味で人と人とが出会える「浄土」を実現出来ると伝える為です。
関東より命がけで問い尋ねに来た朋に、親鸞聖人もまた命がけで答えられています。
向き合う事の大切さを思わずにおれません。