異なることを歎ぐ 第六条 其の三十五
~ 異なることを歎ぐ~ 第六条 其の三十五
人間の身に備わっているものに、「優越感」と「劣等感」があります。
仏教では「分別心」と言います。
物事を「善し悪し」「損得」「優劣」の二つに分けて一喜一憂してしまう心を言います。
また分別心は、「仲間作り」と「仲間外れ」を引き起こします。
身に備わっている心なので、取る事はできません。
(『歎異抄』本文)
専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほ
かの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。(意訳)
尊き人生をどのように歩んでいこうかと、自分自身を深く訪ねていく者同士の中で、あの人は私のグループの者だ、よその仲間だと言い争うなど大変愚かな事です。
私(親鸞)は、共に歩む者を弟子などと思った事はありません。
分別心(ふんべつしん)
冒頭にも書きましたが、人間に備わっている「分別心」は、悲しい事ですが取る事が出来ません。
どれだけ修行を積んで覚ろうとしても、人間から分別心が無くなる事はありません。
例えば、物の多少でケンカになるのも分別心が原因です。
「あっちが多い、私は少ない」と言って争いが起こります。
この争いが国同士であっても、個人同士でもあっても「分別心」が原因という質は同じです。
また人間関係も、誰とでも平等に関わる事は不可能です。
必ずそこには、損得や関係性の近遠という分別心が原因にあります。
老病死も分別の対象になります。
もっと若いはずなのに、健康に気をつけてたはずなのに、平均年齢まで生きるはずなのにと、思いと事実を比べて一喜一憂してしまいます。
縁によって起こる老病死の事実も、分別心を通すと、起こってはならない事、あってはならないことが起こったと七転八倒してしまいます。
事実をそのまま受け入れる事ができませんこのような迷う心につけ込んで、「起こってはならないことが起こらないようにしてあげましょう」と言って、摩訶不思議な儀礼を行って多額の寄付を要求する団体もあるようです。
私たちが分別心で迷うことを良く知っているので、心をもて遊ばれて詐欺に会います。
とにもかくにも、この「分別心」が人間の迷いの本だとお釈迦様は教えます。
ある一面では、「分別心」を「競争心」と捉えて、「発展」を実現してきたと言っても良いかもしれませんがしかし…。