異なることを歎ぐ 第三条 其の十八
~ 異なることを歎ぐ~ 第三条 其の十八
親鸞聖人は、非常に言葉に厳密で、深く仏語の願いを問いながら、自分自身を誤魔化さずに丁寧に歩まれました。
ですから親鸞聖人が述べられた言葉の真意を深く読み取らなければ、間違って理解してしまうので、丁寧に確かめながら読み進めていきたいと思います。
(『歎異抄』本文)
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
しかるを、世のひと、つねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。
この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願の意趣にそむけり。(超訳)
「善人が救われるのだから、悪人が救われないはずがありません」。
しかし世間では、「悪人でさえ救われるなら、善人が救われないはずはない」と言われます。
一応もっともな内容ですが、そのような心持ちは阿弥陀如来の本願の心に背いています
善人 と 悪人
一般に「善人」と言えば、行いが正しく、他人に優しく、自分に厳しく、皆と協調して幸せを願う人を言うのでしょう。
日本では道徳を重んじる人と言ってもいいでしょう。
反対に「悪人」とは、他者に嫌な思いをさせる行為や言葉を発し、悪事をはたらいて法律で罰せられた人と理解しています。
そういう善人・悪人の理解で「歎異抄」の文を読むと、全く理解出来なくなります。
「善人が救われるのだから悪人が救われないはずがない」とか、「悪人が救われるのだから、善人も」など、「悪人」の方が救われやすいと書いています。
どの国の人も、どの時代の人でも、理解しがたいのではないでしょうか。
むしろおかしいと反論を生むでしょう。
親鸞聖人は、まことに不思議な事を言われます。
しかし今まで述べてきたような善人・悪人の理解は、あくまでも一般論で、「あの人は善人だ、この人は悪人だ」と他者の善悪を量る時の目安として理解されているのではないでしょうか。
ところが「私は善人です。私は悪人です」と、「私」が付いたときには「自覚語」になります。
「自覚語」とは、今まで知らなかった自分に出遇ってビックリした、自らに目が覚めたということです。
自分が悪人であった事に目が覚め、自覚した人間には、どのような事が起こるのでしょうか。
「歎異抄」が大切にする「自覚語」に自分自身を照らし、今一歩、歩みを深めたいと思います。