異なることを歎ぐ 第二条 其の十二
~ 異なることを歎ぐ~ 第二条其の十二
先月は、本当に救われるにはどうしたらいいのかを教えてもらう為に、関東より命がけで親鸞聖人に会いに来た人たちに向かって、人が本当に救われていく道は、念仏しかないと言い切られました。その根拠が語られます。
(『歎異抄』本文)
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
(超訳)
私、親鸞にとって念仏は、私の良い処も悪い処も包みつつ、教えに救われなさいと教えてくれる善き人から離れないという事です。念仏は教えに聞き続けるという事です。
念仏とは、願われた世界に出会わせるはたらき
もし、問題が無くなる為に念仏を称えているなら、「これだけ手を合わせたのだから、良い結果を下さい。
もし良い結果が出ないなら手を合わしません」と、仏様と取引する念仏になります。
例えば合格祈願や商売繁盛、無病息災などがその代表でしょう。
思ったような結果が出なかったら、この仏様はダメだといって別の神仏巡りをしなければなりません。
こちらの都合で好かれたり嫌われたり、仏様も大変ですが、私たちが念仏を取引の様に使っているとしたら、救われることも、願いが叶う事も難しいでしょう。
むしろあちらこちらと巡り巡って、迷いが深くなってしまいます。
そういう私たちの目を覚まさせる道が念仏なのだと第二条は伝えています。
この条では「私(親鸞)は、ただ念仏せよという善き人の教えを聞き、信じるだけです」とご自身における念仏の意味を語られています。
私たちが「願う方」ではなく、あなたを迷いから救いたいとずっと願い、一喜一憂する私に道を与えてくれる善き人(師)を念う生き方が念仏です。
念仏のみがまこととは、この出遇い以上の慶びはないという意味です。