サンガの建設113
「悪人こそ救われる」とは。
親鸞聖人は、『歎異抄』で「悪人こそ救われる」と言われている事について、よく質問があります。
一般的な「悪人」の定義からいえば非常識とも思える言葉です。
その上に「悪人こそ」とありますから余計に誤解や反感を与えます。
先日、次の詩に出遇いました。
あるところにひどく嘘をつく息子がいた。それを父が悲しんで息子が嘘をつくたびに、涙とともに座敷の床柱にクギを打ちつけた。 長いあいだには床柱に打ちつ けられたクギはたくさんの数になった。 それを見た息子はさすが に嘘をつかなくなった。 そして本当のことを少しずつ言うように なった。 父は喜び、息子が本当のことを言うたびクギを一本ずつ抜いていった。 床柱に打たれたクギが全部なくなった時、父は言 った。 「おまえが本当のことを言うようになったのでこの通り、床 柱のクギが全部なくなった」。 けれども息子は「でも、クギの跡は 消えることはありません」と泣いた。
始めは父の視点で物事が進んでいます。それは罪を外から見つめる者の視点です。
最後に当事者の言葉が出てきます。
それは罪を犯した者の言葉であり、その事実を生きる者の現在地です。
親鸞聖人にとって「悪人」とは、現在地を自覚した当事者を指しています。
しかし現実は罪を犯しても人のせいにしたり、自分のクギの跡に真向かいになる事は大変困難です。
ですから他者とケンカしたり、自暴自棄になったりと、現在地がハッキリしません。
本当に「悪」を自覚した者、覚悟が決まった者にこそ、歩むべき道(現在地・救い)がハッキリしてくるのだと、親鸞聖人は言われています。