異なることを歎ぐ 第六条 其の三十七
~ 異なることを歎ぐ~ 第六条 其の三十七
親鸞聖人は、「私は師ではないし、弟子は一人もいない」と言われました。
しかし実際は「私はあなたを師と仰ぎます」という方はたくさんおられました。
師は弟子によって成り立ちます。「俺は師だ」という人には、本当の意味での弟子はつかないでしょう。
ではどういう親鸞聖人を、皆は師と仰いだのでしょう
(『歎異抄』本文)
そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏を申させそうらはばこそ、弟子にてもそうらはめ、弥陀の御もよおしにあずかって、念仏申しそうろう人を、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。
(意訳)
私に素晴らしい能力があり、その力で人々に念仏をさせているのなら、私の弟子だと言ってもいいでしょう。
しかし絶対に見捨てないと誓う仏様から尊き道を頂いて念仏される方々を、私の弟子などという事は身の程を知らなさすぎると言わざるをえません。
弥陀の御もよおしにあずかって
仏教全般で実践、理解されていた念仏は、仏様と取り引きをする念仏です。
真面目に念仏すれば、少しでも多く念仏すれば良いことがあるだろうと救いを求める念仏です。
その心には今よりも良くなりたいという魂胆があります。
これを自力の念仏と言います。
では親鸞聖人の念仏はどのような念仏だったのでしょう。人は、一度の人生だから、良い今を生きたいと願うけれども、人間関係や老いや病、また欲深い心で心が濁り、中々純粋に歩めない身を生きています。
しかし①そのような私の憂いを先立って知ってくれていて、②絶対に空しく生きさせないと手を取り導き、③どんな時でも自らの足で歩むことが出来る教えを与えてくださる善き人と出会えた感謝と慙愧の念仏よが親鸞聖人の念仏です。
これを他力の念仏と言います。
他人の力で生きるという意味ではなく、本当の依り処に出会えたという念仏です。
その感動を「弥陀の御もよおしにおんあずかって」と本文では表現されています。具体的には、先述した①②③を与えてくれた法然上人に出会えたお陰で、今までの生き方(自力の念仏)を棄てることが出来た感動が他力すの念仏です。
もし他力の念仏に出会えなかったら、自分の人生は空しく過ぎていただろう。だから出会えた事への感謝しかないと言われます。
その事を踏まえて本文を読み返しますと、法然上人に救われた私(親鸞)は、ただただ共に救われていく場を一生懸命に作らせて頂くだけだとご述懐されています。
それを私の手柄にして、私の弟子だと言う事など、言語道断だと言われています。
みんなが弟子になれる場は、上下関係がなく温かそうですね。