異なることを歎ぐ 第六条 其の四十
~ 異なることを歎ぐ~ 第六条 其の四十
自分で努力を重ねて生きる事は当然のことです。
しかしそのように思う心が強ければ強いほど、努力を自分の手柄にしてしまいます。
そして他者に対しての敬意を欠き、大切な出遇いを失ってしまうと親鸞聖人は教えられます。
努力が出来る身も心も、尊き出遇いもすべて賜ったものだったと報される時、「恩」に報いる人生が始まるのです。
(『歎異抄』本文)
如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんと申すにや、かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々
(意訳)
真の道を歩みたいという心は、お釈迦様の教えや善き人(師)との出会いによって頂いた心なのに、我が物顔にする事は、あってはならない事です。
真の救い(支え)に出会えれば、仏様の恩や善き人との尊きご縁に頭が下がることでしょう。
仏恩を知り、師の恩をも知る
「恩」は「心」の上に、本を意味もとする「因」と書きます。
私が私に成るまでの本(因)を知る心を恩と言いもとます。
私たちには無量の背景(因)があります。
急に今の「私」に成った人はいません。
必ず今に至るまでの背景(因)があります。
その背景(因)を知るという事は、自分自身を知るという事です。
ですから「恩」を知るという事は、「無量の背景(因)を賜った私を生きる」という事です。
無量の背景(因)には大きく二種類あります。
一つは縦の因です。
簡単に言えば身体の歴史です。
血脈といってもいいです。
父母の清血の交わりによって連綿と続けられてきた命の歴史(因)です。
今の私があるのは大変な歴史の中を、一度も途切れること無く生き抜き、護ってきた方々の歴史(因)を賜って、その最後に「私」がいるということです。
もう一つは横の因です。
心の歴史です。
縦の歴史(因)だけで命が護られてきたのではなく、たくさんの横のつながりの支えに育まれてきました。
優しさや厳しさ、言葉や歌に育まれてきました。
生きるという事は必ず横の育み(因)が不可欠です。
縦と横の歴史(因)が縦横無尽に絡み合いながら、命と生きる力を賜り続けています。
その因を報される事しらを、「恩」を知るといいます。
しかし私たちの日常は、「恩」を報しらされることよりも、自分だけが満たされたいと思い、自分だけの力で頑張っていると思っています。
その思いが段々と大きくなると、領土問題にまで発展します。
領土とは土地だけでなく、仲間作りも意味しています。
土地も仲間も範囲を広げるときには必ず排除の精神がはたらきます。
その事を「仏恩も師恩も知らない傲慢な生き方」だと、第六条では問題にし、戒められています。