異なることを歎ぐ 第一条 其の十
~ 異なることを歎ぐ~第一条 其の9
第一条では、救いとは、選ばず嫌わず見捨てないという阿弥陀如来の誓願(摂取不捨)に出遇う事であり、その救いによって、今まで執着していた善悪が破られて、なにものにも束縛されず、自在を生きる者に成っていく事が説かれてありました。 それはお釈迦様と同じような慶びに目覚めた者の歩みが始まるという事です。 第二条からは、具体的な目覚めの歩みが説かれていきますので、共に尋ねていきましょう。
(『歎異抄』本文)
おのおの十余カ国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたもう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。
(超訳)
皆様が遠方から命がけで私を訪ねてきた本当の理由は、「この人生で良し」といえる今を生きる為に、わざわざ来られたのです。
救いとは、問う道に立つ事
京都におられた親鸞聖人の元に、関東時代のお弟子達が会いに来られました。
長旅には大変なリスクが伴う時代なので、まさに命がけです。
そうまでして親鸞聖人に会いに来た理由を、「あなた方が私に会いに来た本当の理由は」と言って、親鸞聖人が述べられています。
普通は、尋ねて来た者が会いに来た理由を言うので、お弟子達はビックリしたことでしょう。
私たちは、自分は何を問い、何が聞きたいのかは分かっているつもりですが、本当に問いたい事、聞かねばならない事は自分では分かっていないと教えられます。
詳細は次号で述べますが、関東から来たお弟子達は、「念仏すれば往生できるのか、地獄に堕ちる
のか」と親鸞聖人に問います。
すると「あなた方の問いは、往生できるのなら念仏するが、地獄に堕ちるのなら念仏はしないと、仏さまを疑って取引をしているようなものです。
本当にそんな事を知りたいんですか。
本当に知りたいのは、そんなたらればの話ではなく、どんな人生であっても今を生きて往く道を聞きに来たのでしょ」と返されます。
自分の問いを他者から教えられた事にお弟子達は驚かれたでしょうが、その事で理屈ではなく、本当は何を求めているのだろうという問いが始まります。
自分自身を問う道にしか救いはない事を親鸞聖人は教えられています。