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異なることを歎ぐ 第六条 其の三十六

~ 異なることを歎ぐ~ 第六条 其の三十六

先月は、「優越感」と「劣等感」を心の根っこに持っているのが私たち人間である事を確認しました。
ですから少しでも他者と違う事が起こると、一喜一憂して心が穏やかではありません。
何とか平常心を保とうと頑張りますが、その時は突然やってきます。
親鸞聖人の現場にもその問題がやってきました。

(『歎異抄』本文)

専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。

(意訳)

尊き人生をどのように歩んでいこうかと、自分自身を深く訪ねていく者同士の中で、あの人は私のグループの者だ、よその仲間だと言い争うなど大変愚かな事です。
私(親鸞)は、共に歩む者を弟子などと思った事はありません。

わが弟子、ひとの弟子

専門職であれば、流派や伝統(歴史)によって師弟関係がハッキリしています。
それは技術や専門知識を正しく受け止めて次世代に継承する必要があるからでしょう。

しかし仏教に至っては、お釈迦様が誕生して直ぐに説かれたように、「天上天下唯我独尊」(どのような人であっても唯一無二の尊い存在である)の身であるという事に目覚める以外、必要な技術も専門知識も要らないのです。

この事に目覚める事が出来たなら、世の中から争いが無くなり、必ず「この人生で善かった」という今を生きる事が出来るでしょうとお釈迦様が誓ってくれているのです。
そこに師弟関係があったら、天上天下唯我独尊ではなくなります。
その事が分からず、私の流派でないと覚れないとか、あちらの師はデタラメだと、善だ悪だと言い合い争っているようでは覚りの受けとめが本末転倒しています。

厳密に言いますと、道を求める限り師は必要です。しかし師と呼ばれる方も誰かの弟子です。言い換えれば「弟子」しかいないという事です。
師が「俺はお前の師だ(お前は俺の弟子だ)」と上から目線で言った瞬間、上下関係があり、優越感と劣等感で争い、僧侶の姿をしていながらお釈迦様の覚りから遠く離れてしまっていると親鸞聖人は怒っておられます。

これは日常生活でも同じです。
俺の弟子、俺の家族、俺の国など、「俺の」と他者を所有する世界は出会いも覚りもなく、師と仰ぐ「弟子」で満ちる世界が弘がれば、歴史を貫いて仏の覚りが伝わり争いの無い世界が開かれるでしょう。

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