異なることを歎ぐ 第五条 其の三十三
~ 異なることを歎ぐ~ 第五条 其の三十三
第五条は、「供養」がテーマでした。一般的に「供養」は「する」ものです。
しかし親鸞聖人は、何度も何度も深く我が身を通して分かった事は、「供養されるべきは私でした」と頂かれました。
これは教義的な理解ではなく、生活を通して、生き様を通して告白された主体的な言葉です。
「まず救われなければならなかったのは私でした」と。
(『歎異抄』本文)
まず有縁を度すべきなりと
(意訳)
まず私が救われなければと
「度(ど)されるべきなり」
「度」は滅度(めつど)と言い、「煩悩を断滅(だんめつ)して、迷いの海を超(こ)え度(わた)らせる」という意味があります。
貪りとケンカと愚痴という煩悩の絶えない日常の中で、ふと立ち止まるご縁を得ると、心の一番奥にある「このままで良いのかなぁ。
このまま人生を終えわるのは寂しいなぁ。
何かしないといけないなぁ」という、ハッキリしないが道を求める心が自分の中にあることに気づきます。
しかしハッキリしない心なので、また日常に流されて煩悩に振り回されてしまいます。
そのような日常を生きている私たちですが、大きなご縁が整ったときに、今立ち止まらなければ永遠に迷ってしまうのではないだろうかという心がはたらいて、真の道を求め始める事があります。
そのご縁とは、大切な出会いを通して、有り難き事の中で生かされていたという感謝の時であったり、大切なものを失ったり、傷つけた事によって、こんなことならもっとしっかりと向き合っていればという懺悔の時もあります。
いずれにしても立ち止まらせ、深く問わせ、道を歩ませるのは、すべて私以外のご縁のはたらきに依ります。
言い換えれば、私が気付くより前から「煩悩を断滅して、迷いの海を超え度ってくれよ」と願われていた事に、今気付いたという事です。
親鸞聖人は、縁によって気付かされた救いを、すべて自覚的な言葉で述べられています。