異なることを歎ぐ 第五条 其の二十七
~ 異なることを歎ぐ~ 第五条 其の二十七
今月より第五条の課題に学んでいきます。
この条は、先立たれた方々に手を合わす意味、供養することの意味、また救われるとは何かを確かめています。
私たちが日頃思っている理解をひっくり返すような内容ですが、親鸞聖人の信心をゆっくり深く味わっていきたいと思います。
(『歎異抄』本文)
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。(意訳)
私(親鸞)は、亡くなった父母への供養の為に念仏した事は、いまだかつて一度もありません。
その理由は、今現に生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在だからである。
死を私事として考える
いきなり戸惑う言葉から始まります。
念仏が亡くなった方の孝養の為でないなら、何のために葬式をし、御内仏(お仏壇)の前で手を合わせているのかと不信感が募ります。
また親鸞聖人ともあろう方が、大切な父母の為に供養しないとは、何のために浄土真宗を興したのかと不安になるでしょうか。
ここで確かめたい事は、亡くなられた方を①「どのような方」として手を合わせているかと同時に、私はは②「どのような者」として死んでいくのかという事です。
「死」を他者の事としてだけでなく、私事として考えなければ、親鸞聖人の言葉が届きません。
孝養(追善供養)とは
孝養(追善供養)とは、亡き人が迷わないように、より良い世界に生まれる様に善を施す行為を言います。
言い換えれば亡き人を、①「迷っている方」と想定している事になります。
死に方によっては、「迷っていないかなぁ、辛かっただろうなぁ、無念だっただろうなぁ」という思いが募る事はありますが、本当に「迷っている」と断定して良いのでしょうか。
もう一つの問題は、「死が迷いの始まり」と考えているならば、追善供養をしている私たちもいずれは死ぬので、迷うという事です。
言い換えれば、いずれ迷う為に今を生きているという事になります。
改めて「孝養(追善供養)」や念仏を称える事の意味を考えなければ、大切な方に手を合わしながら大
変失礼な事をしているのかも知れませんし、自分自身の今が大変暗くなってしまいます。