サンガの建設122
「判決」について考える
先月、京都アニメーション放火事件の裁判で、青葉被告に死刑が言い渡されました。被害者家族だけでなく、世論も求める判決が出たのだろうと思います。
それは被害家族に与えた底知れぬ悲しみと被害者一人一人が受けた苦しみや奪った将来性、また社会に与える影響など、すべてにおいて「殺したいほど憎い」という思いを最大限に受けとめた判決なのでしょう。
しかし被害者家族の中には、「これからどこに向かって生きて往けばいいのだろう。
彼が死ぬことを望みながら、彼は生きてもっとやるべき事があるのではないだろうか」と吐露される方もあるようです。
「殺したいほど憎い」の「殺したい」は、罪業性を最も重視した死刑判決で満足出来ますが、苦しみを背負い続けなければならない家族一人一人の「憎い」が取り残されてしまうのではないでしょうか。
憎むべく相手がこの世からいなくなることで、何故殺されなければならなかったのか、彼はこれからどのように償うべきなのか、むしろ償うとはどういうことなのかなど、被害者家族の悲しさ空しさに応える道が閉ざされてしまう事になりかねません。
どんな判決であっても悲しさ空しさは消えませんが、被害者家族の「憎しみ」に責任を持つような歩みがあるとしたら、どのような判決になるのでしょうか。
罪業性に光を当てすぎると救われなければならない方々の道が見出せなくなる可能性があります。
被害者にとって「判決」は終わりではなく「始まり」なのです。