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異なることを歎ぐ 第二条 其の十七

~ 異なることを歎ぐ~ 第二条 其の十七

先月は、お釈迦様の教えを順に学んで救われるのではなく、善き方(法然上人)の生き方を通してお釈迦様の救いに出遇えたと、親鸞聖人は述べられています。
救いを山頂において、どこから登っているか、登った距離はどれくらいかと言い争っている内は本当の救いに出会えません。
今ここで誰と出遇うかが、非常に大切であると説かれていました。

(『歎異抄』本文)

詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

(超訳)

要するに、わたしの信心は今まで述べてきたような内容です。
このうえは、念仏の教えを信じようとも、また捨てようとも、あなた方お一人お一人が決断することです。

「聞く」か「奪う」か

「信」は、一心不乱な状態ではなく、教えに自分自身を照らし、聞いていくという意味です。

随分昔「聞く」の反対は「奪う」だと教えてもらいました。
人は関わって生き合っている以上、他者の声を聞かないと言う事は、他者の存在を消し、尊厳を奪うと教えられました。
それは自分自身に関しても同じで、自分らしくありたいという声に耳を傾けないで、世間の価値観や習慣を依り処とすると、その価値観通りでなくなった時、自分自身の存在を否定し、自暴自棄になるしかないのが人間なのです。
今を生きている自分自身が本当に願っている事をハッキリさせなければ、どれだけ社会の勝ち組になったとしても、迷いが深まるばかりです。

「歎異抄」本文の最後は、「教えを信じようとも捨てようとも、面々の御はからいなり」(教えを聞くのも教えを捨てるのもそれぞれの決断です)とありますが、言い換えれば、「自分自身の声に耳を傾けるのか、世間の価値観や世の中の声に流されながら生きるのか、どちらを選ぶのかはあなた次第です」という意味があります。
皆、自分自身を奪いながら生きているとは思っていませんが、都合が悪くなって自分の全体を引き受けれなくなっても、絶対に自分を見棄てない為に今、「歎異抄」と向き合う必要があります。
それが親鸞聖人が言われる信心の歩みです。

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