異なることを歎ぐ 第二条 其の十三
~ 異なることを歎ぐ~ 第二条其の十三
親鸞聖人にとっての念仏は、法然上人という善き人に出会えた感動の念仏でした。 もし出会えてなかったら、嫉妬と妬みの世界で、勝った 負けたと一喜一憂する小さな人生でしかなかったと述懐されています。 だからどれだけ念仏を批判されても意に介しませんでした。 何故 なら「救われたから」です。
(『歎異抄』本文)
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり
(超訳)
念仏が、浄土に往くために有効な手立てなのか、それとも地獄に堕ちる原因なのかは、私には分かりません。
存知( ぞんち) せざるなり
「覚り」とは、覚悟が決まると言うことです。
それを「往生」と言います。
往って生まれる、この道で生きて往くという覚悟です。
その覚悟には、こっちの道を選べばどうなりますか?あっちの道は大丈夫ですかと、取引も迷いもありません。
むしろ「存知せざるなり」(知りません)と、断言されています。
その理由が、先月号では、「信知するからです」(信ずるほかに子細なき)と言われていました。
よくよく教えに自分自身を照らされてみたら、小さいことにくよくよし、勝った負けたと一喜一憂し、一度も心安まる時を過ごしたことがなかった。
そんな私の全体を知って、共に歩んで下さる善き人(法然上人)に出遇えた事以外に救われる道は存知しません(知りません)と言われました。
親鸞聖人にとっては、教理や教義として正しいかどうかよりも、私一人が救われるかどうかが大問題でした。
どれだけ勝れた教えだと言われても、その道を歩めない者にとっては意味がありません。
ですからどれだけたくさんの教えを「存知している」かよりも、「信知できる」出遇い、私の全体を知って包んで下さる出遇いを覚る事の方が大切であると、身をもって教えられています。